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1984年10月~12月 ブログトップ
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一気! [1984年10月~12月]

作詞:秋元康 作曲・編曲:見岳章 '84年12月5日(水)発売 歌:とんねるず
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とんねるずは今年で結成からちょうど30年を迎える。「一気!一気と!」繰り返し吠えていたのが25年前の今頃だ。
2人は運動部が全国レベルで知られる帝京高の同期生。石橋貴明は野球部、木梨憲武はサッカー部にいたが、ともにレギュラークラスではなく、全国大会出場は果たしていない。木梨さんは全国大会予選となる東京都大会に出場しており、日本テレビの映像にも残されているが、喫煙が発覚し、出場権を得た全国大会のメンバーからは外された。
1980(昭和55)年、高校を卒業した2人は就職したが、ほどなく再開し、コンビを結成。「お笑いスター誕生!」(日本テレビ系)に出演したのをきっかけにデビューを果たした。
デビュー当初からまあまあの程度でテレビへの露出はあり、歌手としても「新・ど根性ガエル」(日本テレビ系)の主題歌「ピョン吉ロックンロール」でデビューした。
その頃、西城秀樹司会の日テレ土曜朝の情報番組「モーニングサラダ」にレギュラー出演も、些細なことから同番組のプロデューサーと衝突。一貫して日テレ系番組出演タレントであったとんねるずは同局から完全に干されることになる。この間は新宿御苑のパフォーマンスバー「KON」に出演するなど、再び下積み時代を過ごした。また、この頃は同じショーパブ系タレントであるビジーフォーやアゴ&キンゾーらと交流を持ち、グッチ裕三宅に居候していたこともある。
その後、西城氏の初代マネージャーだった秦野嘉王が設立した新事務所「AtoZ」の所属第一号タレントになり再浮上の機を窺うことになった。秦野氏は、当時のお笑い芸人には無縁だったスタイリストをとんねるずに付け、派手なブランドの代名詞でもあった「K-FACTORY」の衣装をコンセプトとするなど、イメージプロデュース戦略を図った。また現在に至るまでとんねるずの重要なブレーンであり、彼らの楽曲の作詞を行っている秋元康との出会いもこの時期である。
そして'84年12月5日、秋元氏作詞の「一気!」が発売。'85年初頭、当時「オールナイトフジ」(フジテレビ)にレギュラー出演していたとんねるずは番組内で「一気!」を歌ったのだが、パフォーマンス中に石橋さんが突然テレビカメラに抱きつき、カメラを倒して壊してしまうという事件が大きな話題となり、ブレイクした。オリコン最高位19位、100位以内登場19週、売上11.0万枚。
♪飲めぬ下戸にはヤキ入れて~と歌い始める1コーラス目は強制的に酒を飲ませるシーン。今だったら飲酒強要で犯罪だ。2コーラス目は木梨さんが客にいろいろなメニューを無理やり食べさせる新宿二丁目スナック「磯ぎんちゃく」のママ“チャッピーノリリン”を演じている。3コーラス目は石橋さんが矢沢永吉に扮し、英語や業界用語を交えながら太っ腹なキャラクターを演じている。4コーラス目は石橋さんが学校朝礼の場で貧血で倒れ、木梨さんが先生に助けを求めるという内容で、3月21日発売の1stアルバムに『成増』収録されたNew Version(http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=86281)では日射病をテーマにしている。
さらに5月21ら日発売の『自画自賛/ザ・ベスト・オブとんねるず』にはLong Versionとして、大きく歌詞を変えて収録されている。
とんねるずが歌番組に露出し始めた頃、「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)の1コーナー「ひょうきんベストテン」に出演。しかし、かつて「ひょうきん族」の真裏で放送していた日本テレビの番組に出演していた事から、司会者から「他局の方々」という扱いを受けてしまう。そして唄い始めるや否や、「ひょうきん族」の出演者から、ビール瓶で殴られる、ケーキを顔面にぶつけられる、狭い透明の壁に押し込まれ諸々のゴミをかけられるなど、2人とも散々な目に遭い、ついに二人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ!」「フジテレビ命(いのち)だよ~」と音をあげてしまった。
レコードジャケットの中の2人は応援団を想起させる「学ラン(長ラン)」姿で、テレビで歌う時もこれだった。彼らの体育会系な暴力的ギャグは、その後のお笑い界に大きな流れを作り、現在のお笑いタレントたちにも上下関係の厳しさは脈々と受け継がれている。
当時とんねるずが所属していたレコード会社はビクター音楽産業(現「ビクターエンタテインメント」)。「一気!」からキャニオンレコード(現「ポニーキャニオン」)移籍第一弾となった「やぶさかでない」('86年5月28日)まで、作詞は秋元康、作曲は見岳章(みたけ・あきら)のコンビだった。後にこの2人は美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」を生み出した。見岳氏は土屋昌巳がヴォーカルを務め、「すみれSeptember Love」が大ヒットした一風堂でキーボードを担当していた。
その後、とんねるずは多くのヒット曲を世に送り出したが、THE ALFEEの高見沢俊彦が書き下ろした「大きなお世話サマー」を除き、作詞は秋元氏、作曲は後藤次利だ。

この2枚組CDのDISC-1の1曲目に収録


涙のtake a chance [1984年10月~12月]

作詞:荒木とよひさ 作曲:福島邦子 編曲:小泉まさみ '84年12月21日(金)発売 歌:風見慎吾
http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=6378
寅年生まれのアーティスト特集3日目は1962(昭和37)年10月10日生まれの風見しんご。歌手として活動していた頃の芸名は「風見慎吾」。歌手としてはシングルを6枚リリースした。
4枚目のシングル「涙のtake a chance」は徐々にオリコンチャートを上昇し、デビュー曲「僕笑っちゃいます」以来のTOP10入りで最高位は10位、100位以内登場16週、売上22.5万枚。
イントロの終わりと、曲中の「Come on Come to me」の声が入る部分では後方宙返りをする。最大の見所は、2コーラス目が終わった後の長い間奏で繰り広げられるブレイクダンス。
「欽ちゃんの週刊欽曜日」(TBS系)にレギュラー出演している裏で、風見さんは自らニューヨークに出向き、猛特訓でブレイクダンスを修得。この曲にそれを取り入れ話題を呼んだ。これをテレビで見てブレイクダンスを始めたものも少なくない。
ナインティナインの岡村隆史やガレッジセールもリスペクトする存在と語ったことがある。またこれ以前の歌のダンスは、あくまで歌の振り付けであったが、この曲はダンスに歌が付いている、といえる程大胆にダンスを取り入れており、ここまでの楽曲はこれ以前になく、このため今日隆盛を極めるダンスミュージックの先駆者、としての評価もある。あまりのダンスの激しさに生歌は不可能でたいてい口パクだったが、当時の演奏事情から、止むを得ず生歌にすると息も絶え絶えで歌が聞き取れない事があった。

このCDの14曲目に収録

ジュリアに傷心 [1984年10月~12月]

作詞:売野雅勇 作曲・編曲:芹沢廣明 '84年11月21日(水)発売 歌:チェッカーズ
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チェッカーズ最大のヒット曲となったシングルは1984年11月21日発売の5枚目「ジュリアに傷心」“傷心”の読み方は“ハートブレイク”。ブルボンから発売された食玩CD「J'sポップスの巨人たち 80'sポップス編」にもチェッカーズの代表曲として「星屑のステージ」と共に収録されている。
オリコンチャートでは12月3日付の初登場から4週連続1位、100位以内登場18週、売上70.3万枚。1位獲得は「哀しくてジェラシー」「星屑のステージ」に続いて3作連続。翌'85年の年間チャートでは1位に輝いた。
「ザ・ベストテン」(TBS系)では8週連続で1位に輝いている。 リードヴォーカル担当の藤井郁弥(現「藤井フミヤ」)はテレビでこの曲を歌う時、必ず原曲よりキーを落として歌っていた。
オリコンでは『哀しくてジェラシー』より3作連続の1位獲得となり、翌年1985年の年間チャート1位に輝いた。
シングルとアルバムではミックスが若干異なる。ベストアルバム『COMPLETE THE CHECKERS all singles collection』にはアルバムバージョンが収録されている。
B面「チェッカーズのX'mas Song」はメンバーのオリジナルで、作詞が藤井郁弥、作曲が武内享。編曲はチェッカーズと芹澤廣明。アマチュア時代に武内さんがジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」を意識して作った曲で、歌詞もかなり違っていた。

この2枚組CDのDISC-1の5曲目に収録

恋人達のペイヴメント [1984年10月~12月]

作詞・作曲:高見沢俊彦 編曲:ALFEE '84年10月17日(水)発売 歌:アルフィー
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=37568
昨日は昭和59年10月22日付のオリコンチャートで初登場1位を獲得した原田知世の「天国にいちばん近い島」を紹介したが、今日はその翌週、10月29日付で初登場1位を記録したアルフィー(現「THE ALFEE」)の「恋人達のペイヴメント」だ。100位以内登場16週、売上33.6万枚。グリコ「アーモンドチョコレート」CFソング。
19枚目のシングルにして、アルフィー初の1位獲得作品。16枚目の「メリーアン」でブレイクして以降では、初めて高見沢俊彦によるリードヴォーカルを担当。初期のフォーク路線からロックへの転身でブレイクしたが、この曲はバラード。CMでも使われている、高見沢氏が♪せーかいーじゅうにー~と歌う高音が話題になった。
昨年、アルフィーが「新堂本兄弟」(フジテレビ系)に出演したとき、本当に久しぶりにテレビでこの曲を歌ったのだが、テレビ番組を語る上で欠かせないのが、「ザ・ベストテン」(TBS系)の中継で起きたハプニング。ファンの間では「犬山事件」として語り継がれている。
「犬山事件」とは何かというと、番組で「ファンの家に突然遊びに行き、その家の外で歌う」というどっきり企画を愛知県犬山市で行ったが、ファンは不在だったうえ、いざ歌った時にはカラオケのテープが伸びてしまっていて、近所の犬は吠えるし、酷い中継になった。このエピソードは平成12年12月21日発売のビデオ・DVD『THE ALFEE ザ・ベストテン&ある日ィ突然! Complete edition 2000』に「犬山の一夜」のタイトルで収録されている。
この曲では他にも「野外イベントでヘリが飛んだ」「2コーラス目を間違えた」「歌い始めた途端“あ、ゴメン”と言った」など、歌い直しで何かと話題には事欠かなかった。
B面の「ロールオーバー・イエスタデイ」はロック調。サビのコーラス以外は坂崎幸之助がリードヴォーカルなのだが、コーラスになっているサビの最後は、高見沢氏が♪ぶっとばそうーぜー~と吠えている。

天国にいちばん近い島 [1984年10月~12月]

作詞:康珍化 作曲:林哲司 編曲:萩田光雄 '84年10月10日(水)発売 歌:原田知世
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原田知世6枚目のシングル「天国にいちばん近い島」は、自身唯一のオリコン1位獲得曲。本人主演の同題名映画の主題歌で、昭和59年10月22日のオリコンチャートで初登場1位。100位以内登場16週、売上27.6万枚。初回プレス版は、レコード盤が透明になっている。
なんといっても、サビのファルセットが美しい。両手でマイクを持って、どこか頼りなさげに歌う姿が聴いているだけでも頭に浮かぶ。そんな知世ちゃんも今日で42歳になった。
映画の原作は森村桂の旅行記で、41年に出版された。子供の頃、亡き父(作家の豊田三郎)が語った、花が咲き乱れ果実がたわわに実る夢の島、神様にいつでも逢える島。働かなくてもいいし、猛獣や虫もいない…そんな天国にいちばん近い島が地球の遥か南にあるという。それが、きっとニューカレドニアだと思い、ニューカレドニアへ行くことを心に誓う。死んでしまった父に、また会えるかも知れない…そう信じて。母が寂しがっていると言えば、心地よいその島暮らしを捨ててでも戻ろうと思ってくれるに違いない。そして、神様の目をぬすんで、父を連れて帰ればいい!そう信じて出発した旅行の顛末。まだ海外旅行自体が自由にできなかった頃ゆえの苦労、夢と現実のギャップ、現地の人達との交流などの体験が書かれる。
43年、「あしたこそ」というタイトルでNHK朝の連続テレビ小説の8作目としてテレビドラマ化(「違っているかしら」からも一部原作を引用)。
そして59年12月に角川春樹事務所の製作、東映の配給で映画化。原作は剣持亘で監督は大林宣彦。
知世ちゃん演じるヒロインの桂木万里は、急死した父・次郎の葬儀を終え、車の中で父の話していた「天国にいちばん近い島」ニューカレドニアの事を思い出していた。万里は元来、無口でおとなしい性格の女の子だった。父・次郎が時折話すニューカレドニアのことが唯一、万里の心をときめかせていた。万里は葬儀を終えた後、母・光子にニューカレドニアに行きたいということを話す。光子は、無口でおとなしい性格の万里が初めて自分で何かをしようとしていることを認め、万里をニューカレドニアに行かせるのだった。

このCDの5曲目に収録

俺ら東京さ行ぐだ [1984年10月~12月]

作詞・作曲:吉幾三 編曲:野村豊 '84年11月25日(日)発売 歌:吉幾三
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昭和52年11月25日、「俺はぜったい!プレスリー」でデビューした吉幾三。この曲は12.1万枚のヒットをマークしたが、その後は鳴かず飛ばず。
その後、吉氏は自ら作詞・作曲をするシンガーソングライターとなり、再びスポットが当たるのは千昌夫に提供し、59年3月25日に発売された「津軽平野」のヒットだ。
「俺ら東京さ行ぐだ」は、主人公が故郷の田舎について、いかに何もないところかというのをラップで表現し、こんな村は嫌だから東京へ出ようとする部分は普通に歌っている。オリコン最高位4位、100位以内登場24週、売上35.1万枚。当時のオリコンでは演歌チャートではなくフォーク、ニューミュージックチャートでランクインしていた。
ラップというものが日本で本格的に知られるようになったのは、当時ニューヨーク帰りだったの佐野元春が59年6月21日に12インチ、7インチの2ヴァージョンでリリースした「COMPLICATION SHAKEDOWN」。米国では少しずつ認知されつつあったラップが佐野氏によって持ち込まれ、演歌畑の吉氏が大胆にこれを取り入れたことで日本でもその後の音楽界に大きな流れを作ることになる。
歌詞が吉氏の出身地の言葉である津軽弁であると勘違いされることも多いが、全く津軽弁になっていない。その題を題材に映画が公開され、吉氏本人が出演した。
「電話もガスも電気もない」という内容の歌詞があり、発売当初は出身地である金木町(現在は五所川原市と合併)から「うちはそんなに田舎じゃない」と猛抗議を受けたと後日談で語っている。また、発売した当時日本中の小さな農村から「ふざけるな!!」「オラたちの村をバカにしてるのか!?」と凄い数のクレームが押し寄せてきたとも語っている。しかし昭和27年生まれの吉氏いわく、幼少期は本当になかったのだとのこと。
また3コーラス目には「レーザーディスクは何者だ!?」ともあるが、後日パイオニアから吉氏にレーザーディスクがプレゼントされたという逸話もある。
「ベコ」は牛の東北弁。少し後の5月、当時中学3年生だった私は修学旅行で山形、福島、栃木3県を回ったが、山形の宿舎には赤べこグッズが多数置かれていた。
「ザ・ベストテン」(TBS系)で初めて歌ったのは「今週のスポットライト」コーナーだが、吉氏は歌詞を忘れて最初から歌い直した。
平成2年には同じメロディーで歌詞の違う「これが本当のゴルフだ!!」という曲も発表している。こちらはゴルフが下手な人を主人公としている。
近年は歌詞を変えたり、ダンスミュージックやトランスで「俺ら東京さ行ぐだ」をカヴァーしているミュージシャンがいる。
最近ではニコニコ動画など動画共有サイトを中心に「俺ら東京さ行ぐだ」と、TRFや宇多田ヒカル、電気グルーヴ、TM NETWORKなど他のアーティストの楽曲とのマッシュアップやこの曲自体のリミックスがブームとなっている。吉氏はこのブームについて「温故知新。私の曲に限らず昔の曲が注目されるのは音楽業界にとって喜ばしいことだ」「ジャンルは違うが音楽の基本は底辺で共通する部分がたくさん沢山ある。私の昔の楽曲との間にたまたま同調する部分が有ったのではないか」とコメントした。
作品発売から約24年を経た平成20年10月、「上京した主人公が、親に忠告された言葉を思いだす」という設定で書かれた吉氏自身の作詞作曲によるアンサーソング「NDA!」(んだ!)が発売された。また11月には、ニコニコ動画に縁のあるアーティストによるリミックスおよび楽曲を収録した「IKZO CHANNEL 441.93」(「441.93」は「よしいくぞう」の語呂合わせで、実在のチャンネルではない)も発売され、吉氏本人もIKZO名義でキャンペーンを行う。

このCDの10曲目に収録

津軽のじょっぱり [1984年10月~12月]

作詞:鳥井実 作曲:市川昭介 編曲:斉藤恒夫 '86年10月21日(火)発売 歌:石上久美子
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三味線とストリングスを中心にインストが奏でられる「津軽のじょっぱり」。オリコン最高位30位、100位以内登場38週、売上12.6万枚。「じょっぱり」とは津軽弁で頑固者の意。
この曲でデビューした石上久美子は北海道南富良野出身。南富良野高校を昭和61年に卒業し、同年10月21日にデビューした。もちろん着物姿で歌うが髪型は刈り上げに近いショートカットだった。
民謡(北海道民謡連盟公認4級)で鍛えた声で♪こーとしーもー~と唸りながら歌い出す歌唱法は、演歌ファンなら、当時引退していた都はるみの再来だと思った人もいるだろう。作曲が数多くのはるみソングを作った市川昭介だし。同時期にデビューした坂本冬美、島津亜矢とともに「NHKはつらつ3人娘」と呼ばれ、大いに将来を嘱望された。
だが、続く「人生双六おとこの旅路」では作曲者を変えたのが裏目に出たのか、3.4万枚とセールスが伸びず、石上久美子は演歌界の歴史に残る一発屋となった。それ以降はヒットチャートにさえ顔を出さない。平成元年には体調を崩して活動を休止したが、5年に再開。現在も歌手として頑張っている。

ミステリーウーマン [1984年10月~12月]

作詞・作曲:松宮恭子 編曲:椎名和夫 '84年10月24日(水)発売 歌:石川秀美
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「ダビング10」をめぐって、著作権者側とメーカー側が対立していたが、著作権者側の代表的立場であり、実施を決断した実演家著作隣接権センターの椎名和夫常任理事は、日本芸能実演家団体協議会の常任理事でもある。
新聞で椎名氏の名前を見たのは初めてだ。かつては編曲家として活躍していたので、こういう役職を務めているんだということに少々驚いた。近年では著作権ロビイストとして精力的な活動をしており、私的録音録画補償金制度の適用範囲拡大(iPodや汎用ハードディスクなど、あらゆるメディア・機器から補償金を徴収する)などを繰り返し主張してきている。
椎名氏は昭和48年に吉田美奈子のバックミュージシャンとしてヴァイオリニストデビュー。その後、はちみつぱいの2代目ギタリスト&ヴァイオリニスト、ムーンライダーズの初代ギタリストを務めたが、52年に音楽性の相違を理由にムーンライダーズを脱退し、編曲家に転身した。
今日取り上げるのは、椎名氏が編曲を手掛けた「ミステリーウーマン」。石川秀美12枚目のシングルで、昭和59年11月12日付のオリコンチャートで5位に初登場。100位以内登場13週、売上13.8万枚。
ピアノで始まるイントロから、スキャットでフェイドアウトするまで、疾走感にあふれたアレンジに仕上がっている。秀美氏といえば力んだ歌い方に特徴があったが、前のシングル「熱風」あたりからは、メリハリのある歌い方が身についており、「ミステリーウーマン」でも♪Woo Mystery Woman~と歌う部分は抑え目になっている。
1コーラス目で、Aメロの最後は“ふりはらうわ もう愛してない”という歌詞だが、秀美氏の歌い方が“♪ふりはらう One More 愛してない♪のように聞こえる。どちらも同じ意味に解釈できるのが面白い。
それにしても、6月9日、ネットで見て驚いた。同日の「はなまるマーケット」で、秀美氏の夫である司会の薬丸裕英(元シブがき隊)が第五子となる二女を秀美氏が7日に出産したことを報告した。第四子出産から10年以上過ぎていて、もう40歳という高齢もあり、妊娠していることを公表できなかったという。秀美氏と同じ学年で、10年以上のブランクを経て出産した方といえば、秋篠宮紀子妃殿下がいるが、おそるべし丙午!
私が知っている範囲での椎名氏編曲作品を紹介すると、中森明菜歌唱では「DESIRE-情熱-」と「駅」。「駅」はその後、作詞・作曲を手掛けた竹内まりやがセルフカヴァーアルバムに収録し、ロングヒットした。中島みゆき歌唱では「御機嫌如何」「仮面」等。「仮面」は作曲でみゆき氏本人ではなく甲斐よしひろという、超レアな曲だ。光GENJI歌唱では「剣の舞」、そしてこちらはコーラスアレンジなるが、SMAP歌唱の「君色思い」。

このCDの12曲目に収録

十人十色 [1984年10月~12月]

作詞・作曲:大江千里 編曲:清水信之 '84年11月1日(木)発売 歌:大江千里
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今年年男・年女のアーティスト特集。今日は1960年9月6日生まれ、メガネがトレードマークである大江千里の出世作「十人十色」を紹介する。
出世作といっても、大ヒットというセールスではない。オリコン最高位は58位だが、100位以内に17週ランクインし、売上は4.9万枚。
昭和56年秋、 関西学院大学経済学部在学中にCBSソニー(現・ソニーミュージックエンタテインメント)のSDオーデションで最優秀アーティスト賞を獲得。58年5月21日、EPICソニー(現:エピックレコードジャパン)かららシングル「ワラビーぬぎすてて」、アルバム『WAKU WAKU』でデビューした。キャッチフレーズは「私の玉子様、スーパースターがコトン」(作者は当時コピーライターだった林真理子)。
59年7月、5枚目のシングル「ロマンス」はTM NETWORKでデビューしたばかりの小室哲哉のアレンジで、初めてコンピューターに挑戦した曲である。11月、6枚目のシングル「十人十色」で初めてオリコンチャートに登場。味覚糖(現・UHA味覚糖)「DATE KISS」のCM曲に起用され、千里さん本人が出演したのが、スマッシュ・ヒットの理由。CMに使用されたバージョンは小室さんが編曲した。CMの中の千里さんは、まだ大学生の香りが抜けきっていないカジュアルなルックスで、近年だったら「ハモネプ」に出ていそうな感じ。
ギターによるイントロから気分がウキウキする。4行ずつのAメロ(1コーラス目が1回、2コーラス目が2回)は前2行の後ろに♪ウー♪とスキャットが歌われている。
カラオケで歌う場合、3行のBメロには「パン パパン Fu!」を、サビは♪十人十色♪の直後に「Fuwa×4」の合いの手を入れるといいよ。
この曲で出会った千里さんと清水さんだが、現在もこのコンビで楽曲制作をしており、最近は平成19年10月24日にリリースされた牧野由依の「スケッチブックを持ったまま」(テレビ東京「スケッチブック ~full color's~」エンディング曲)を手がけている。


ふたりのラブソング [1984年10月~12月]

作詞:吉岡治 作曲:五木ひろし 編曲:斉藤恒夫 '84年12月21日(金)発売 歌:都はるみ&五木ひろし
http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=3964
今年年男・年女のアーティスト特集。今日は都はるみ(1948年2月22日生まれ)と五木ひろし(1948年3月14日生まれ)のデュエットソング「ふたりのラブソング」。
はるみ氏のデュエットソングといえば、宮崎雅(みやざき・ただし)との「ふたりの大阪」、岡千秋との「浪花恋しぐれ」が有名だ。
「浪花恋しぐれ」が大ヒットした翌昭和59年、はるみ氏は突然「普通のおばさんに戻りたい」と年内での引退を発表した。
大晦日の第35回NHK紅白歌合戦が間近に迫る中、盟友・五木ひろしとのデュエットソング「ふたりのラブソング」を急遽レコーディング、レコードジャケットは当日のツーショット。左にいるはるみ氏が五木氏の右腕を両腕で組んでいる。当時ともに36歳の年男・年女だった。オリコン最高位16位、100位以内登場11週、売上8.9万枚。
すれ違いの愛が続き、別れることを決めた2人が、ネオン街でお酒を飲みながら最後の一夜を過ごしている。夜明けを迎えた。外は霧だ。「さよなら」を云わずに出ていこうとする女に対し、男は「途中で不幸に出合ったら、いつでも帰っておいでよ」と別れる様子を歌っている。
コロンビア全国歌謡コンクール昭和38年の第14回、39年の第15回でそれぞれ優勝したのが北村春美と松山数夫。ともに優勝の翌年にデビューしたが、道のりは対照的。
3rdシングル「アンコ椿は恋の花」が大ヒットしたはるみ氏に対し、“松山まさる”の芸名でデビューした五木氏はまったく売れず、芸名を3度変え、“五木ひろし”の名で最初に出したシングル「よこはま・たそがれ」が大ヒットし、ようやくスターの仲間入りしたのは46年のことである。
以後、ともに日本レコード大賞に輝くなど、切磋琢磨の関係にあった2人が、はるみ氏の引退を控え実現したのがデュエットソングをリリース。
オリコンチャートに初登場した大晦日、五木氏は「長良川艶歌」で2度目の日本レコード大賞を受賞し、はるみ氏は「夫婦坂」を紅白で歌って引退した。
その後、新人歌手のプロデュースなどを手がけてきたはるみ氏は平成2年、歌手に復帰した。前年に美空ひばりが52歳で他界したことが関係していることがないとはいえない。

この2枚組CDのDISC-2の7曲目に収録


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