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心の色 [1981年10月~12月]

作詞:大津あきら 作曲:木森敏之 編曲:川村栄二 '81年11月25日(水)発売 歌:中村雅俊
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35646
俳優として、歌手として第一線で活躍し続けた中村雅俊が今日で還暦を迎えた。
慶應義塾大を卒業した1974(昭和49)年、初主演となったドラマ「われら青春!」の主題歌「ふれあい」がデビュー曲で、126.5万枚の大ヒット。その後も「いつか街で会ったなら」「俺たちの旅」等が次々とドラマの主題歌となり、大ヒット。
そして'82年、「ふれあい」に次ぐビッグヒットとなった曲となったのが「心の色」。本人主演で'81年11月17日~3月23日のTBS系火曜21時台に放映されたドラマ「われら動物家族」は、ドラマは子だくさんの兄の突然の死によって、7人の子供の世話をすることになった、独身の動物園飼育係の、シートン動物記にも似た愛と涙の人間記。
ドラマは当初、堀江淳の「ルージュ」(大ヒットした「メモリーグラス」の次にリリースしたシングル)が主題歌であったが、挿入歌として流れている「心の色」の曲の反響が大きかったので、後にこちらが主題歌に変わった。
「心の色」は'81年11月25日に発売され、'82年になってからヒットした。オリコンチャートでは100位以内登場28週、売上は「ふれあい」に次ぐ69.7万枚。3月1日付で「ふれあい」以来の1位を獲得して、「赤いスイートピー」(松田聖子)の連続1位を3週でストップさせ、3月29日付まで5週連続で1位を保った。年間売上では第4位にランクイン。
この曲のヒット当時、「ザ・ベストテン」(TBS)、日本テレビ「ザ・トップテン」(日本テレビ)といったテレビのランキング番組で1位の座を争っていたのがサザンオールスターズの「チャコの海岸物語」であった。しかし、これが縁でサザンの桑田佳祐は、かつて中村氏に曲を提供し、サザン版の同じ曲がありながらもあまり話題にならなかったリベンジとして、後に中村氏の為に「恋人も濡れる街角」を書き下ろし、大ヒットにとなった。
「心の色」で第15回日本作詞大賞の大衆賞を受賞した大津あきらは慶大では中村氏の2年先輩(中村氏は1年浪人しての入学なので義務教育では1年先輩)で、在学中には慶大でさらに1年先輩のつかこうへいと出会い、「つかこうへい劇団」で数々の舞台劇中歌の作詞・作曲を手がける。大学卒業後も同劇団での劇伴を中心とした音楽活動を継続しており、所属女優の根岸季衣(ねぎし・としえ)と結婚。「心の色」の大ヒットをきっかけにして本格的に作詞家としての活動を始め、
「輝きながら…」「風のエオリア」(いずれも徳永英明)、
「for you...」(髙橋真梨子)、
「AL-MAUJ(アル・マージ)」(中森明菜)、
「DAYBREAK」「秋」「TIME ZONE」「DON'T SLEEP」(いずも男闘呼組)、
「共犯者」「ニューグランドホテル」「ラスト・シーン」(いずも矢沢永吉)
といった作品を提供した。
肺ガンのため昨年、62歳で亡くなったつか氏が手掛けた芝居といえば「蒲田行進曲」が思い浮かぶが、同映画の主題歌が「恋人も濡れる街角」である。
大津氏は直腸ガンのため'97年4月に47歳で死去。実家のあった山口県長門市には大津氏の墓と、「心の色」の歌碑がある。

このCDの8曲目に収録


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哀愁ヒーロー Part1/Part2 [1981年10月~12月]

作詞:三浦徳子 作曲:中村裕介 編曲:井上鑑 '81年11月1日(日)発売 歌:郷ひろみ
http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=38594一連の1981年秋のヒット曲集シリーズは今日が最後。郷ひろみ40枚目のシングル「哀愁ヒーロー Part1/Part2」を紹介する。オリコン最高位16位、100位以内登場13枚、売上11.1万枚。
タイトルにPart1/Part2とあることからわかるように、それぞれ曲調およびメロディーが異なっており、曲全体が2部構成のようになっている。そのため、ラジオ番組などではテンポの速いPart1の部分で終えることがよくあった。全体としてはマイナー調だ。
ただ、曲全体としてみると、時間的に半分に分かれているわけではなく、Part2は♪忘れない 君だけを~と歌う曲の最終盤だけで、ここはスローテンポになっている。
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ス・ト・リ・ッ・パ・ー [1981年10月~12月]

作詞:三浦徳子 作曲:沢田研二 編曲:伊藤銀次 '81年9月21日(月)発売 歌:沢田研二
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36299
「ザ・タイガース」の一員として、グループサウンズ(GS)ブームの一翼を担った沢田氏はソロデビュー以降も数多くのヒット曲を飛ばし、昭和48年には「危険なふたり」で第4回日本歌謡大賞、52年には「勝手にしやがれ」で第8回日本歌謡大賞、第19回日本レコード大賞を受賞。53年には「ダーリング」で第11回日本有線大賞、「LOVE(抱きしめたい)」で第11回全日本有線放送大賞を受賞した。
54年9月21日発売の「ロンリー・ウルフ」はオリコン最高位18位、売上8.9万枚と低迷。55年に入り、1月1日発売の「TOKIO」は最高位8位、33.8万枚と大ヒットしたが、以降、「恋のバッド・チューニング」「酒場でDABADA」「おまえがパラダイス」は売上こそ10万枚超だが、TOP10には入らず。
56年、自ら作曲した「渚のラブレター」がTOP10入り。続いてリリースした34枚目のシングルが「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」。前作に続き三浦氏作詞、沢田氏作曲。
発売当初は伸び悩みオリコンには7週間経ってからTOP10に初登場し、翌週の11月16日付では最高位となる6位まで上昇。売上は36.4万枚と「TOKIO」を上回り、'80年代の沢田氏の曲では最大のヒットとなった。この曲で年末の賞レースをにぎわせ、第12回日本歌謡大賞では放送音楽賞を受賞した。第23回日本レコード大賞では金賞を受賞した。
詩はA、A´、サビという構成だが、テレビで歌う際は2コーラス目のAメロが省かれていた。A´メロは1コーラス目が「過去を脱ぎ捨て 昨日を脱ぎ捨て」、2コーラス目が「未来を脱ぎ捨て 明日(あした)を脱ぎ捨て」と対比されている。
ジャケット写真には大きく「JULIE & EXOTICS」と書かれ、沢田氏だけでなく、当時のバックバンド「EXOTICS」全員が一緒に写真に写っている。テレビ番組などで歌う際は、EXOTICSの5人も派手なメイクと衣装を纏っていた。
EXOTICSのメンバーは吉田建(b)、柴山和彦(g)、上原裕(うえはら・ゆたか、g)、安田尚哉(dr)、西平彰(key)。柴山氏は今も沢田氏のバックを務めている。吉田氏は「新堂本兄弟」の「堂本ブラザーズバンド」のバンマスとしておなじみ。今では頭髪が薄くなり、テレビに出ている際は毛糸の帽子で隠している。

この3枚組CDのDISC-3の4曲目に収録

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悪女 [1981年10月~12月]

作詞・作曲:中島みゆき 編曲:船山基紀 '81年10月21日(水)発売 歌:中島みゆき
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36575
11月3日発令の秋の褒章で、紫綬褒章を受章した中島みゆき。所属事務所を通じ、「思いがけず嬉しいことの表現に『棚からボタ餅」と申しますが、今の私の気持ちは、ボタ餅どころではございません。『棚から本マグロ』。これくらいの驚きでございます」とユニークな表現で喜びのコメントを伝えた。「辞退なんかしたら二度とこんな機会はないかもと思いまして、即座に『いただきます!』と、お返事してしまいました」という。熱狂的なファンを生んだラジオ番組「オールナイトニッポン」のDJ時代をほうふつとさせる軽妙な語り口だ。
11枚目のシングル「悪女」を紹介しようとしていたタイミングでこのニュースがあったので、あえて褒章発令翌日までずらした。
「悪女」は昭和56年10月21日発売。11月30日付のオリコンチャートで「ギンギラギンにさりげなく」(近藤真彦)の5週連続1位を阻み、12月14日付まで3週連続1位となった。100位以内登場27週、売上83.3万枚。詩に明るさが感じないのは相変わらずだが、曲調には暗さが感じられないのがこの曲の特徴。
57年3月21日発売の9thオリジナル9曲入りアルバム『寒水魚』には1曲目に収録されているが、後藤次利によるロック色をより強調したソリッドなアレンジが施されたヴァージョンになっている。このアルバムの発表後彼女は、自身が"御乱心の時代"と称する模索の時期へと突入するが、後年になって彼女はこれがその予兆だったと述懐している。
みゆき氏は'70年代の「わかれうた」、'80年代の「悪女」、'90年代の「空と君のあいだに/ファイト!」「旅人のうた」、2000年代の「地上の星/ヘッドライト・テールライト」といったように、各年代でオリコンチャート1位を獲得した唯一のアーティストだ。
B面の「笑わせるじゃないか」は山内恵美子への提供曲。山内恵美子とはどういう人かというと、'72年、スカウトされモデルとしてデビュー、'73年、東映に所属となり、「山内えみ子」の芸名でデビュー。歌手としてレコードも出した。'74年、「聖獣学園」に助演後、「山内恵美子」と芸名を変える。映画デビュー作「ネオンくらげ」でグラマラスなヌードと体当たり演技を披露し注目され、以後セクシーかつ不良の香りのする役で「番格ロック」「ネオンくらげ 新宿花電車に主演。'80年代後半までテレビドラマなど出演。なお芸名表記は、えみ子→えみこ→恵美子→絵美子と多数変更している。ロングヘアーの黒髪が印象的な女優だった。

この3枚組CDのDISC-2の7曲目に収録

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ハロー・グッバイ [1981年10月~12月]

作詞:喜多條忠 作曲:小泉まさみ 編曲:竜崎孝路 '81年10月15日(木)発売 歌:柏原芳恵
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35733
私は「ハロー・グッバイ」のオリジナルはずっと讃岐裕子(さぬき・ゆうこ)だと最近まで思っていた。発売は昭和52年3月25日で、オリコン最高位71週、100位以内登場7週、売上1.9万枚。ただし、実際の映像は見たことがない。
ところが先週、この曲を取り上げるにあたり、ウィキペディアで調べたら、最初に歌ったのはアグネス・チャンだという。昭和50年12月10日発売「冬の日の帰り道」のB面だ。昨夜放送の「HEY! HEY! HEY!」(フジテレビ系)でも紹介された。アグネス氏から「この曲に日の目を見せてくれありがとう」と感謝されたという。
大阪府出身の芳恵姉ぇは54年秋、「スター誕生!」(日本テレビ系)に出場、清水由貴子の「お元気ですか」を歌って合格。その後グランドチャンピオンとなり、「柏原よしえ」の名で(17歳の誕生日に「柏原芳恵」に改名)55年6月1日、シングル「No.1」ででデビュー。7枚目の「ハロー・グッバイ」が自身初のトップ10入りとなるオリコン最高位6位、100位以内登場21週、売上38.2万枚という自己最高のヒット。同期デビューの松田聖子、河合奈保子に並ぶアイドルスターとなった。豊かな胸・豊満なボディ・美貌は、河合さんと共に、グラビアやアイドル水泳大会で注目される実績を残した。同期で同郷でもある河合とは「なおなお」「よしよし」と呼び合う間柄で仲が良かった。プロボクシングの亀田三兄弟の父・史郎氏とは小学校の同期で、「当時から美人で大人びていた芳恵ちゃんは男子によくモテた」と述べている。
「ハロー・グッバイ」といえば、イントロと間奏部分の振り付け。豊満なボディに似合わない、かわいらしい振り付けは、今でもたまにこの曲をテレビ番組で歌うことがあっても色褪せることはない。作詞の喜多條忠(きたじょう・まこと)は「神田川」(南こうせつとかぐや姫)でおなじみ。歌い出しは♪紅茶のおいしい喫茶店~だが、この喫茶店はこうせつ氏の実兄が大分市で経営していた店がモデルになっている。
当時の音楽番組、特に公開放送となると、各アイドルには親衛隊がいたが、この曲では♪できることなら~の部分で力の限り叫んでいたのを覚えている。
この曲から始まり、「ザ・トップテン」(日本テレビ系)では19曲、「ザ・ベストテン」(TBS系)では14曲がトップ10内にランキングされた。
現在の皇太子殿下が大のファンで、61年10月19日のリサイタル「おんな飛翔」に来場し、芳恵姉ぇにバラ「プリンセス・サヤコ」を贈っている。芳恵姉ぇはお返しにサイン入り写真集を贈った。

このCDの5曲目に収録

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センチメンタル・ジャーニー [1981年10月~12月]

作詞:湯川れい子 作曲:筒美京平 編曲:鷺巣詩郎 '81年10月21日(水)発売 歌:松本伊代
プロ野球日本シリーズは28年ぶりに巨人と日本ハムが対戦することになった。よって、しばらくは当時のひっとょくを紹介する。
このブログで初めて松本伊代の曲を取り上げる。もちろんデビュー曲「センチメンタル・ジャーニー」だ。オリコン最高位9位、100位以内登場20週、売上34.3万枚という自身最大のヒットとして、今もなお語られている。「ザ・ベストテン」(TBS系)では最高6位に入り、1981年12月から'82年1月にかけて通算5週間ランクインした。この曲で'82年の第24回日本レコード大賞新人賞を受賞した。
デビュー時期上、新人賞レースには'82年参加の扱いとなり、同年にデビューした数多くの歌手とともに「花の'82年組」と呼ばれ、先陣を切った形になった。
伊代ちゃんは昭和40年6月21日生まれ。東京都大田区雑色出身。「ボンド企画」にスカウトされて、56年に「たのきん全力投球!」(TBS系)で、田原俊彦の妹役としてデビュー。
デビュー前の9月1日から本人出演のロッテ「ガーナチョコレート」のCMソングとして「センチメンタル・ジャーニー」が大量オンエアされ、注目を集めた。キャッチフレーズは「瞳そらすな僕の妹」。
この曲の中で最もインパクトがあるのは、♪伊代はまだ16だから~と歌うところ。日本の歌謡曲では初めて歌詞に歌手自身の個人情報(名前と年齢)が含まれた曲であった。レッツゴーヤング(NHK)に出演した時には、歌詞の「伊代は」を「わたし」に変更して歌った。これは当時のNHKの基準に照らして歌詞が個人宣伝になるとされたためである。
今でもこの曲を踊れる人は多いと思う。初期の伊代ちゃんのバックダンサー&ヴォーカルとして華を添えていたのはスクールメイツから選抜された2人で、左が神奈川県出身の北沢清子(昭和39年2月28日生まれ)、右が東京都出身の山本恵子(昭和37年5月20日生まれ)。背が高く、セブンティーンなどの雑誌に「伊代の後ろに巨人」と書かれたこともあった。また、松本伊代の姉と勘違いされたこともあった。
後にこの2人は伊代ちゃんのマネージャーにスカウトされ、ボンド企画に所属することに。同じスクールメイツ出身で大成功したキャンディーズなど「キャ」の付くグループが縁起が良いということで、そのマネージャーが「キャプテン」というユニット名を付けた。スクールメイツ時代には日本レコード大賞、日本歌謡大賞、NHK紅白歌合戦、ザ・ベストテン、レッツゴーヤングなど数々の歌番組に出演。西城秀樹、石野真子、榊原郁恵、松田聖子、たのきんトリオなどのバックで踊っていた。
2人は59年、麻生真美子(現「麻生麻真宮子」)とともに「麻生真美子&キャプテン」を結成。62年に解散し、キャプテンは同年、「Be-2(ビーツー)」として再デビューした。
2人はその後、地方のバラエティ番組で司会を務めたのち芸能界を引退することになったが、ビートたけしから「やめちゃダメだ…ねえちゃん達はティナ・ターナーのように50代になってもミニスカートにハイヒールで歌わなくちゃ」と言われ活動を再開し、「北野ファンクラブ」や「足立区のたけし、世界の北野」(ともにフジテレビ)などに「デビル・ガールズ」名義で準レギュラーで出演。北野監督の映画「HANA-BI」「菊次郎の夏」「『Dolls」などにも脇役で出演した。
北沢さんは現在、ロミロミ&ヒプノセラピーサロン「ビューティハウスBe」を経営している。近況はブログ「KIYOねえのポノポノ生活」(http://blog.kiyonee.com/)をご覧あれ。9月15日に伊代ちゃんの自宅に行ったことが書いてあるよ。

このCDの1曲目に収録

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ウエディング・ベル [1981年10月~12月]

作詞・作曲:古田喜昭 編曲:平野融 '81年11月21日(土)発売 歌:シュガー
http://www.utamap.com/showtop.php?surl=37840
今日紹介するのはシュガーの「ウエディンング・ベル」。最近はPUFFYがカヴァーし、フジテレビ系ドラマ「婚カツ!」主題歌として注目されている。目下、「うたまっぷ」で人気歌詞ランキング第1位だ。
オリジナルを歌っていたのは女性3人組ヴォーカルグルプ「シュガー」。昭和56年11月21日に発売。57年序盤のヒットチャートを代表する作品となった。オリコン最高位2位、100以内登場20週、売上48.5万枚。この曲を引っ下げ、第33回NHK紅白歌合戦に出場した。
昔の彼氏から教会での結婚式に招待された女性の心情を写実的に描いている。作詞・作曲の古田喜昭は当時、ポップスだけでなくアニメの主題歌をよく手掛けていた。「パーマン」のエンディングテーマ「パーマンはそこにいる」は、作曲だけでなく自ら歌っていた。
イントロはない。まるでほんとに教会で聞いているかのような美しいハーモニーが衝撃だ。3コーラス目まであり、コーラスごとに前半はメインとコーラスのヴォーカルの掛け合い。後半はオーソドックスなのだが、各コーラスごとの最後に歌われる「くたばっちまえ、アーメン」という悪態をつく歌詞が大きな話題を呼んだ。最後はウエディング・ベルが打ち鳴らされてフェイド・アウトする。
シュガーはミキこと笠松美樹(メインヴォーカル&キーボード)、クミこと長沢久美子(今年から「長澤久美子」と表記、ヴォーカル&ギター)、モーリこと毛利公子(ヴォーカル&ベース)。クミとモーリが高校時に出会い、「かりんとう」というバンドを結成。第14回ヤマハポピュラーソングコンテストにも出場。 その後ミキが合流し、「シュガー」となる。
ビッグヒットと呼べるのは「ウエディング・ベル」だけで、2ndシングル「アバンチュールはルックスしだい」は9.3万枚売れたが、どういう曲だったかまったく覚えていないし、10.2万枚売れた7thシングル「サーカス・ゲーム」は今でもメロディーを覚えている。
シュガーは61年に解散。毛利さんは平成2年、出産中の病気のため29歳の若さで死亡した。長澤さんは昨年から「Bring」という企画・デザイン会社を設立し、代表を務めている。

このCDの1曲目に収録

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フライディ・チャイナタウン [1981年10月~12月]

作詞:荒木とよひさ 作曲:海老名泰葉 編曲:井上鑑 '81年9月21日(月)発売 歌:泰葉
http://www.uta-net.com/user/phplib/view_1.php?ID=6462
昭和55年といえば、25歳の春風亭小朝がいまだに破られていない36人抜きで真打ちに昇進したり、林家三平が54歳で急死した年だ。
三平の死去から1年と1日が経過した昭和56年9月21日、当時20歳の二女・海老名泰葉がファーストネームをそのまま芸名にしてシンガーソングライターとしてデビューした。もともと音楽大学への進学を志望していたが、父が倒れ断念した。
曲名は「フライディ・チャイナタウン」。テレビ歌うのを見たのは新人賞に「第14回全日本有線放送大賞」でのステージのみだったが、ピアノを弾きながらカン高いトーンで♪It's So Fly-Day Fly-Day CHINA TOWNと歌い出すサビが印象的だ。オリコン最高位69位、100位以内登場19週、売上5.6万枚。歌詞に書かれているように、“Fly-Day”であり、“Fryday”ではない。
今日は金曜日、そして三平の生誕82周年。そして泰葉のデビュー曲が「フライディ・チャイナタウン」。加えて最近は海老名家の話題が豊富だ。長男・泰孝さんは「林家こぶ平」として親しまれたが昨年、林家一門の最高名跡である「林家正蔵」を一昨年3月21日に襲名した。さらに二男の泰助君は再来年春に「林家三平」を襲名することが決まった。
さらに大ニュース。泰葉さんは63年6月に小朝氏と結婚したが、このたび離婚していたことがわかり、11月13日に帝国ホテルで小朝氏、そして林家正蔵、林家いっ平と2人の弟も同席する異例の形で離婚会見を行った。
小朝氏は「めちゃくちゃ仲がいいので、変な感じがする」。泰葉さんは「仕事とおかみさん業が両立できず、仕事をやりたいとお願いすると、いいよといってくれた」と語った。
最後になぞかけを求められた泰葉さんは「はい。この会見とかけまして、泰葉と解きます。その心は小朝(コワサ)知らず」。

このCDの1曲目に収録


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ジェームス・ディーンのように [1981年10月~12月]

作詞・作曲:Johnny 編曲:T.C.R.横浜銀蝿R.S. '81年11月18日(水)発売  歌:Johnny 
http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=5861
The Crazy Rider 横浜銀蠅 Rolling Special(通称:横浜銀蠅)のベーシスト、Johnnyがソロとして初めてリリースしたシングル「ジェームス・ディーンのように」はオリコン最高位3位、100位以内登場17週、50.2万枚のヒットを記録した。
当時、嶋大輔、杉本哲太といったような今は俳優として活躍している人が横浜銀蝿の弟分として芸能界デビューした頃で、彼らをまとめて「銀蠅ファミリー」と呼んでいた。'90年代に一世を風靡した「小室ファミリー」、そして今も健在の「つんくファミリー」とあるが、音楽界の「〇〇ファミリー」の走りともいえる。
曲についてだが、ギターとベースは横浜銀蠅ナンバーのようにコード数が少なく、間奏部分以外は初心者でもマスターできる。コーラスパートは♪Come on Come on Come on♪と繰り返すサビが今こうして書いていてもとてもなつかしい。AメロとA'メロは半音を含んでいるメロディーが若干せつなく聞こえる。
Johnnyは本名・浅沼正人。メンバーの中で一番人気があり、バレンタインデーにはトラック何台分もの大量のチョコレートが贈られていた。本人はその事が不思議だったらしく、大量のチョコレートを見て「この国はどうなってるんだ?」と思ったと言う。昭和58年12月31日に横浜銀蠅は解散したが、その後もソロ活動。63年には横浜銀蝿が契約していたキングレコードの社員となる。中山美穂、的場浩司らをディレクターとして手掛け、平成14年からは「ベルウッドレコード」プロデューサー。現在は、インディーズバンドを支援する「YOKOHAMA FACTORY」を展開している。私が見た10年の再結成ツアーには不参加。

この2枚組CDのDISC-1の1曲目に収録
スーパー・スペシャル(上)


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完全無欠のロックンローラー [1981年10月~12月]

作詞・作曲・編曲:高原茂仁 '81年11月14日(土)発売 歌:アラジン
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36488
1月10日にTOM★CATの「ふられ気分でRock'n'Roll」を取り上げた際、「世界歌謡祭」もしくは「ヤマハポピュラーソングコンテスト」というくヤマハ音楽振興会が主催した歌謡曲のコンテストでグランプリに輝くとデビュー曲のヒットは約束されたようなものだが、半面「一発屋」で終り、2ndシングルもそれなりに売れるが徐々にフェイドアウトするケースが多いと書いた。
名古屋商科大学フォークソング同好会のメンバーを中心に結成されたアラジンは完全な一発屋。昭和56年、「完全無欠のロックンローラー」で第22回ヤマハポピュラーソングコンテストグランプリ、第12回世界歌謡祭グランプリを受賞。オリコン最高7位、100位以内登場19週、売り上げ枚数29.9万枚。知らない人も聴けばわかるが、コミックソングで、「永ちゃん」でなく「Aちゃん」という歌詞に思わずわらってしまう。♪完全無欠のロックンローラー♪と歌う部分は、マイクスタンドを傾けながら前進し、次の女性コーラス♪あたいら女にムシされて♪で同じ体勢で後退する。
当時の高原さんはリーゼントヘアーで、当時はやっていたツッパリスタイルだったが、あくまでもバンドのキャラであって、“ワル”という言葉とは無縁のバンドだった。
その後はヒットに恵まれず2年ほど活動したのち58年に解散した伝説のバンド。平成15年6月29日、フジテレビ系列で放送された「27時間テレビ」で、1日限りの復活ライブを行った。
ヴォーカルのグレート高原の本名は高原茂仁。アラジン解散後は高原兄(たかはら・けい)の芸名で名古屋を中心に長年タレント活動してきたが、父の死後は家業の電気工事会社を継ぎ、現在は地元の富山県を中心にタレント・歌手として活動している。
作曲家としてはいずれも島田紳助作詞で、島谷ひとみのデビュー曲「大阪の女」、紳助氏司会のクイズ!ヘキサゴンⅡ(フジテレビ系)のエンディングテーマで香田晋が歌う「おかあさん」を手掛けている。

このCDの3曲目に収録
栄光のポプコン~総集編


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