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1986年1月~3月 ブログトップ
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じゃあね [1986年1月~3月]

作詞:秋元康 作・編曲:佐藤準 '86年2月21日(金)発売 歌:おニャン子クラブ
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=55173
おニャン子クラブの3rdシングル「じゃあね」は1986(昭和61)年2月21日に発売。3月3日のオリコンチャートでグループ初となる1位を獲得。100位以内登場9週、売上28.1万枚はおニャン子がリリースした9枚のシングルの中では最多。
結成間もない頃から、おニャン子の中には未成年なのに喫煙して解雇されたり、芸能界で活動することを認めていない学校の方針で脱退を余儀なくされたメンバーがいた。レコードジャケットには三上千晶(会員番号)と矢島裕子(ゆうこ)(同)も出ているが、学業との両立に支障を来し、発売した頃には2人とも脱退している。
おニャン子のちゃんとした卒業式が行われたのは、「じゃあね」がヒットしていた頃。当時高校卒業を控えていた中島美春(会員番号5)が、ソロ歌手として活動を続ける河合その子(同12)とともに春休みのコンサートでおニャン子から卒業することが発表されていた。
「じゃあね」の詞には、芸能界に残らない中島の人柄に敬意を表した仲間やスタッフによる送別の意味がこめられている。もともとは中島のソロ曲として考えられていたが、おニャン子が出演するフジテレビ系番組「夕やけニャンニャン」のプロデューサーだった笠井一二(かずじ)によると、「彼女はすごくやさしい子で、私のためにこんな曲を出してもらってやめるのはうしろめたいと、そういう部分で悩んでいた」ため、おニャン子クラブとしての歌になった。
そういった意図をスタッフから聞いた河合は自ら引き、レコードジャケットには出ていない。ただし、「夕やけニャンニャン」では3月3日に卒業証書が授与されたとき、河合は卒業式で中島と並んで歌い、中島最後の出演となった同局の「夜のヒットスタジオDELUXE」でもバックで歌い、中島を仲間として送り出している。
3月31日には日本武道館で第1回卒業式とコンサートが行われ、翌日の「あぶな~い課外授業」1日3回公演をもって中島と河合はおニャン子から卒業した。
中島の卒業の理由は「歯科衛生士になるため」と説明されていたが、'90年代後半に入ってからのおニャン子復活関連イベントには顔を出し、その後、とんねるずのマネージャーで夕ニャンの出演者でもあったボブこと市川兼司と結婚した。

このCDの曲目に収録

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レイニーブルー [1986年1月~3月]

作詞:大木誠 作曲:徳永英明 編曲:武部聡志 '86年1月21日(金)発売 歌:徳永英明
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36209
1月21日にデビュー25周年を迎えた徳永英明が本日、50歳になった。
1985(昭和60)年8月、マリンブルー音楽祭でグランプリを受賞したことがデビューのきっかけ。同年10月、東郷神社特設ステージにて行われたロックミュージカル「はらじゅくグラフティ」にトニー役で出演。トニー役オーディションではTRFのSAMとも競い、合格する。'86年4月15日に設立されたファンクラブ「トニーズクラブ」はここからきている。
1986(昭和61)年1月21日、シングル「レイニーブルー」と、同曲を収録した11曲入りアルバム『Girl』が発売され、デビューを果たした。24日には新宿ルイードでデビューライブを行う。
アルバムには1曲目に収録の「レイニーブルー」は徳永氏がバイト先の軽井沢で知り合った大木誠とともにつくり上げた。編曲は当時頭角を現していた武部聡志。プロデュースは秋谷銀四郎。
発売にあたり、歌詞が一部変更された。元の歌詞のヴァージョンはライブで歌われることがあり、1990年に発売されたライブアルバム『徳永英明Live』で聴くことができる。当時のオリコンチャートでは最高位90位、100位以内登場2週、売上0.4万枚というものだったが、'87年リリースの4thシングル「輝きながら…」の大ヒットで過去の作品、その後発売されたベストアルバムが売れ、「レイニーブルー」は高い知名度を誇る曲となった。
'97年にはアレンジし直され、「Rainy Blue~1997 Track~」として再リリースされた。c/wはここでも「奇跡のようなめぐり逢い」(作詞:竹花いち子)で、ともに編曲は瀬尾一三。

このCDの1曲目に収録

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今夜はエンジェル~Tonight is what it means to be young~ [1986年1月~3月]

作詞・作曲:JIIM STEINMAN 日本語詞:椎名恵 補作詞:三浦徳子 編曲:戸塚修 '86年1月1日(水)発売 歌:椎名恵
http://www.uta-net.com/user/phplib/view_0.php?ID=42783
椎名恵のデビュー曲「今夜はANGEL~Tonight is what it means to be young~」は、1986(昭和61)年1月1日に発売された。ストリート・オブ・ファイヤー(1984年のアメリカ映画)の作中曲「今夜は青春(Tonight Is What It Means to Be Young)」を元にした曲である。
大映テレビが製作し、'85年12月4日から'86年4月16日にフジテレビ系列で水曜日の20時台に計18回放映された放映されたドラマ「ヤヌスの鏡」主題歌。オリコン最高位7位、100位以内登場21週、売上26.4万枚。
椎名氏は本名が及川千沙。'81年10月4日、ヤマハ音楽振興会が主催する第22回ヤマハポピュラーソングコンテストにおいて「及川ちさ」名義で出場し、「好きよあなた」で川上賞を受賞する。
「今夜はANGEL」のレコードジャケットは逆光で顔がよくわからない写真が使われたことから、テレビ初出演となったフジテレビ系「夜のヒットスタジオDELUXE」では、後ろを向かされた姿が最初に映し出された。 TBS系「ザ・ベストテン」第423回にも同曲で出演した。
元々バックコーラスを務めていたが、透き通った高音から深みのある低音までを使い分ける歌の上手さを認められてソロデビューした。表現力が豊かで、アップテンポな曲も静かなバラードもこなせる。
「今夜はANGEL」のヒット以降も、「愛は眠らない」「LOVE IS ALL」と日本語カヴァーが続き、その後も多くのドラマやアニメの主題歌、CMソングを歌った。
現在はシンガーソングライターとして、自身の曲にとどまらず、他の歌手へ詞を提供しており、ボイストレーナーとしても後進指導に当たっている。

このCDの1曲目に収録

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DESIRE [1986年1月~3月]

作詞:阿木耀子 作曲:鈴木キサブロー 編曲:椎名和夫 '86年2月3日(月)発売 歌:中森明菜
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36367
中森明菜15枚目のシングル(7インチ盤としては14枚目)「DESIRE」は1986(昭和61)年2月3日に発売された。2月17日付のオリコンチャートで1位に初登場。100位以内登場18週、売上51.6万枚。前年の「ミ・アモーレ」に続き、第28回日本レコード大賞を受賞した。'86年の年間シングルチャートでは2位を記録。自身初のCMタイアップがついたシングル曲(パイオニア「PRIVATE CD 500AV」のCM)である。
TBS系音楽番組「ザ・ベストテン」で7週連続第1位、上半期ベストテン第1位、年間ベストテン第2位を記録し大ヒットした。日本テレビ系音楽番組『ザ・トップテン』最終回、『歌のトップテン』第1回でも第1位になった。
第28回日本レコード大賞(1986年)の大賞受賞曲となり、前年度の第27回日本レコード大賞(1985年)の大賞受賞曲「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」に次いで、2年連続で日本レコード大賞を受賞した。
ジャケット裏面・歌詞カードには「このレコードは可能な限り大音量でお聴き下さい。」という注釈がついていた。David Bowieの名盤「ジギー・スターダスト」のジャケットに同じ事が書かれており、ロック色を強く意識していた事が窺える。
シングルレコード初回プレス盤のタイトル表記は「DESIRE」のみで、副題はついていなかったが、再プレス以降、ジャケット裏面・歌詞カードのタイトル表記に「-情熱-」という副題が追加された。しかし当時のテレビの音楽番組では副題を付けない「DESIRE」のみの表記で紹介されていた。アルバム作品に収録されたのは『CD'87』('87年5月1日に発売されたCDのみの企画アルバム)が初で、そこでは「DESIRE-情熱-」の表記、それ以降も全て副題を入れた表記で統一されている。
その後、『true album akina 95 best』('95年12月6日発売)、『Akina Nakamori〜歌姫ダブル・ディケイド』(2002年12月4日発売)、 『BEST FINGER 25th anniversary selection』('06年1月11日発売)といったベストアルバムで新録した。
ボブのウィッグに、着物を洋風にアレンジした独特の衣裳・振りも話題となった。ボブのウィッグ姿自体は前年のコンサートツアー「BITTER & SWEET 1985 SUMMER TOUR」でも披露されていた。明菜ちゃんは着物が好きで、衣装も着物に関するものができたらと思い、歌番組での衣装のデザインも明菜ちゃん自身が意見を出したものであった。レコード大賞連覇直後に出演した第37回NHK紅白歌合戦ではブルーのコンタクトレンズを付けて、白を基調とした着物アレンジで銀髪のボブウィッグという斬新な衣装であった。
サビの後半♪Get up, Get up, Get up, Get up, burning love~が歌い出しだが、“love”部分の強烈な響きで、なおかつ長く保つビブラートはこの頃から明菜ちゃんの歌い方で特徴的なものになってきた。
1コーラス目では上記の英語部分の直前に♪なんてね 淋しい~と歌われるが、“なんてね”と“淋しい”の間の4拍子の歌パートは休符になっており、後年のコンサートツアー等ライヴでは、この部分で観客が「はぁどっこい」という合いの手を入れることが通例となっている。明菜ちゃん自身、そうされることが嬉しいとコメントしている。
作詞は阿木耀子。夫の宇崎竜童とのコンビで数多くのヒット曲を世に送り出した。特に明菜ちゃんの憧れの人である山口百恵の作品が多い。明菜ちゃんは芸能界入りするきっかけとなったオーディション番組「スター誕生!」でも、阿木&宇崎夫妻が作った「夢先案内人」を歌った。
B面の「LA BOHÈME」は作詞が 湯川れい子、作曲が都志見隆。編曲はこちらも椎名和夫。私が明菜ちゃんのB面ソングの中で一番好きだが、B面の中でも人気が高く、当時テレビ番組でもNHK『ヤングスタジオ101』にて振り付きで歌唱された。後年のコンサートツアー等ライブでもよく選曲されている。

この2枚組CDのDISC-2の1曲目に収録

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モーニングムーン [1986年1月~3月]

作詞・作曲:飛鳥涼 編曲:佐藤準 '86年2月5日(水)発売 歌:チャゲ&飛鳥
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35935
私がチャゲ&飛鳥(現在の表記はCHAGE and ASKA)のファンになったのは、14thシングルで、キャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)移籍第1弾となる「モーニングムーン」だ。
1986(昭和61)年2月5日にリリースされた。オリコン最高位11位、100位以内登場17週、売上16.1万枚。10万枚以上の売り上げは3rdシングル「万里の河」('80年9月25日発売)以来であり、当時自身3番目の売り上げ。
シングルヴァージョンでは'86年4月21日発売の10曲入りアルバム『TURNING POINT』の1曲目に収録されているものより、曲の長さが短い。
当時、おニャン子クラブのナンバーを主に手掛けていた佐藤準がコンピューターでアレンジしたロックナンバー。飛鳥はギターを持たずにスタンドマイクだけで歌っており、2コーラス目後の間奏では激しいダンスを披露している。
'87年夏にデビューした光GENJIの初期の作品は、チャゲアスと佐藤氏による楽曲が中心。'86年に移籍してきたとんねるずを含め、キャニオンの黄金時代が築かれつつあった。
元々はアルバムヴァージョンの長さで作成されたが、シングルカットする際に曲が長すぎるという理由で、イントロと2コーラス目後の間奏の一部がカットされたショートサイズになった。アルバムヴァージョンはドラムの音やギター・キーボード等のパートが強調されている。
シングルヴァージョンが収録されているアルバムは『SUPER BEST』('87年3月5日発売)のみで、その後に発売されたベストアルバム等にはロングヴァージョンが収録されている。
チャゲが現在のようにサングラスをするようになったのはこの「モーニングムーン」からである。CHAGE名義で作詞・作曲のB面「Gently」はアルバム未収録曲。

この2枚組CDのDISC-1の8曲目に収録

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バナナの涙 [1986年1月~3月]

作詞:秋元康 作・編曲:後藤次利 '86年1月21日(火)発売 歌:おニャン子クラブ・うしろゆびさされ組
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=38395
おニャン子クラブの高井麻巳子(会員番号16)と岩井由紀子(同19)による派生ユニット「うしろゆびさされ組」による2ndシングル「バナナの涙」は1986(昭和61)年1月21日に発売された。このユニットでは計6枚のシングルを発売したが、すべてのA面、B面がアニメ「ハイスクール!鬼面組」のそれぞれテーマ曲、挿入歌となっている。6月5日発売の10曲入り1stアルバム『ふ・わ・ふ・ら』には2曲目に収録。
2月3日付のオリコンチャートに初登場し、ユニット初となる1位を獲得。100位以内登場12週。売上は6枚中この曲が最多で31.0万枚。
当時、作詞家の秋元康はおニャン子クラブ、とんねるずをメディアの寵児にしたことで「時代の仕掛け人」と呼ばれていたが、同日に発売したとんねるずの「歌謡曲」が1位に初登場し、秋元氏にとっては、自身の作詞作がワンツーフィニッシュする形になった。
B面は「あぶないサ・カ・ナ」で、作・編曲は当時チェッカーズを手掛けていた芹澤廣明。作詞の沢ちひろは高井のソロ作品にも多く関わっている。

このCDの8曲目に収録

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バレンタイン・キッス [1986年1月~3月]

作詞:秋元康 作曲:瀬井広明 編曲:佐藤準 '86年2月1日(土)発売 歌:国生さゆりwithおニャン子クラブ
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=55175
当時、大人気を博していたアイドルグループ「おニャン子クラブ」で中心的存在だった国生さゆり(会員番号8)のソロデビュー曲。バレンタインデーの季節には定番の曲として知られる。私の記憶が正しければ、“withおニャン子クラブ”としてバックコーラスをしていた2人は、白石麻子(会員番号22)、渡辺美奈代(同29)。
「夕やけニャンニャン」やおニャン子クラブの活動を統括していたスタッフらの話によれば、狙って後世に残る定番曲を生み出そうとして作ったわけではなく、またお菓子業界からの要望によって作られたものでもなく、彼女のデビュー時期がたまたまこの時期になったためにバレンタインデーという題材が選ばれたにすぎなかった、とのこと。当時のおニャン子クラブから出す曲は「夕やけニャンニャン」が月曜から金曜までの放送と視聴者の日々の生活に密着していたため、楽曲のテーマ性に季節や行事に沿ったものが多かった。
1986(昭和61)年1月13日、この週最初の「夕ニャン」のそのオープニングに「バレンタイン・キッス」が初公開。さらに同夜のフジテレビ「月曜ドラマランド」で放送されたおニャン子クラブ主演の初ドラマ「ボクの婚約者」のエンディングでもこの曲の歌唱映像は流れる。この日から発売日、そしてバレンタインデーのある週まで彼女が歌う「バレンタイン・キッス」の歌唱映像は、夕方5時台にもかかわらず視聴率が常時10%を軽く越し、全国ネットに近いネット数を持つようになった「夕やけニャンニャン」で毎日流れ、またおニャン子関連の他のテレビ番組やラジオ番組でも後押しされる。このインパクトがいかほどのものであろうか。2月1日に発売され、2月10日付のオリコンでは初登場第2位を獲得、2月14日以後も「ザ・ベストテン」などの人気歌番組にもランキングされ続けて出演して歌うなどこの曲の人気は持続していった。
この曲は毎年バレンタインデーが近づくと、街ではBGMとして持てはやされ、テレビやラジオからは季節感を出すために大量に流れ出す。
50'sのようなオールディーズ・サウンドに乗って、国生さゆりがコニー・フランシスを意識して髪をポニーテールにして歌ったこの曲は誰もが振り返れる思い出へと姿を変えていった。この曲以後もバレンタインデーの歌は作られたが、ついぞこの曲ほどのインパクトを残したものはない。こうして「バレンタイン・キッス」は定番となっていった。近年では2004年2月14日に人気アニメ作品「テニスの王子様」の登場キャラクターである跡部景吾(CV:諏訪部順一)のキャラクターソングとしてカヴァーされ、シングルCDが発売されている(オリコンウィークリーチャートで14位)。その翌年'05年2月5日に「テニスの王子様」の登場キャラクターである同じく忍足侑士(CV:木内秀信)のキャラクターソングとしてもカヴァーされシングルCDが発売されている。どちらも初回生産限定盤としてリリースされたため、発売後すぐに完売となった店が相次いだ、その影響もあり'06年2月1日に同じく初回生産限定盤として再リリースされている。
そしてオリジナルの発売から今年で25年。当時おニャン子クラブをプロデュースしていた作詞家の秋元康が総合プロデューサーを務める大所帯アイドルグループ、AKB48の派生ユニット「渡り廊下走り隊」がさらに2人を加え、“渡り廊下走り隊7”として「バレンタイン・キッス」を本日リリースした。PVの最後のシーンでは7人でハートマークを作っているが、見るとこみ上げるものがある。
昨日、東京都の代々木公園野外ステージで発売記念無料ライブを開催し、3000人のファンが集まった。グループでリーダーを務める平嶋夏海によると、さゆり姉ぇ本人から「かわいらしくブリブリ歌って」とアドバイスを受けたという。全員で「国生さ~ん、私たちと一緒に歌ってください!」とご本家にラブコールを送っていた。

このCDの1曲目に収録
GOLDEN☆BEST/国生さゆり SINGLES

渡り廊下走り隊7の通常盤はこのCDの1曲目に収録


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歌謡曲 [1986年1月~3月]

作詞:秋元康 作曲:見岳章 編曲:水谷公生 '86年1月21日(火)発売 歌:とんねるず
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「一気!」でブレイクし、「青年の主張」を経て、「雨の西麻布」で数多くの音楽賞をお笑いコンビでありながら受賞したとんねるずが次にリリースしたのは「歌謡曲」。
1986(昭和61)年1月21日に発売され、2月3日付のオリコンチャートで2位に初登場。100位以内登場10週、売上は当時自己最多となる25.0万枚。同日発売された「バナナの涙」(うしろゆびさされ組)が初登場1位だった。
ある男と、銀座の薄幸のホステス「アチャコ」との物語。描かれた世界こそ若干異なるが、前作「雨の西麻布」と同じくムード歌謡路線であり、かつ「雨の西麻布」を踏襲している部分が随所にみられる。
ちなみに前作のなかで「全国の銭湯をキャンペーンでまわって」「背中を流し」ていたとんねるずは、今回は「全国の八百屋をキャンペーンでまわって」いる。
1コーラス目のサビの♪おまえのすべて~という部分は石橋貴明のソロだったが、歌番組で貴さんは、この部分を「好きさ好きさ好きさ」(ザ・カーナビーツ)の該当する詞の部分のメロディーでしばしば唄っていた。
B面は「落ちて滑って不合格」。発売時期が受験シーズンならではのタイトルだ。
とんねるずは「一気!」から「歌謡曲」までの時期はビクター音楽産業(現:ビクターエンタテインメント)に所属していたが、次作の「やぶさかでない」からはキャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)に移籍している。

この2枚組CDのDISC-2の10曲目に収録

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冬のオペラグラス [1986年1月~3月]

作詞: 秋元康 作・編曲: 佐藤準 '86年1月1日(水)発売 歌:新田恵利
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昨夜、テレビ東京で「いい旅夢気分」が放送されたが、新田恵利、国生さゆりの元おニャン子クラブ同士が昨年から共演する機会が目立つようになってきた。グループ在籍中は仲が悪いともいわれ、ファンの間でも「新田派」と「国生派」に分かれていたことを考えれば、隔世の感がある。
今日は、おニャン子クラブからは河合その子に次いで2人目のソロ・デビューを果たした会員番号4、新田恵利の1stシングル「冬のオペラグラス」を紹介する。
1986(昭和61)年1月1日に発売され、オリコンチャートでは1月13日付の初登場から1月27日付まで4週連続で1位をキープした。100位以内登場12週、売上32.0万枚。
ただし、初登場時は年末年始のため'85年12月23日から'86年1月5日までの2週分の集計。さらに年末年始のため、1月1日発売といっても、実際には1日どころか、数日早く発売されていることと、当時勢いが増していたおニャン子クラブ関連の作品のアーティストパワーが重なり、女性ソロアイドルでデビュー曲が初登場1位を獲得した初めてのシングルという結果になった。
恵利ちゃんの場合はあくまでもおニャン子クラブの一員として先にシングルをリリースしているため、「完全に初CDデビュー」という条件が付くと、初の女性ソロアイドルデビュー曲初登場第1位獲得記録は内田有紀の「TENCAを取ろう!-内田の野望-」('94年10月31日付)となる。
「ザ・ベストテン」(TBS系)では1月16日放送分で8位に初登場。合計6週に渡ってランクインした。
おニャン子クラブの仕掛け人で、かつ作詞を担当した秋元康もこの曲の大ヒットは予想以上であったらしく、後年、音楽週刊誌「The Ichiban」(現「Oricon Style」(オリコン刊)でのインタビューでは「ミトコンドリアたちが一斉に動き出した感じがした」と感想を述べた。
B面は「ロマンスは偶然のしわざ」。86年5月2日発売の11曲入り1stアルバム『ERI』にはいずれもアルバムミックスとして、A面が11曲目、B面が4曲目に収録されている。

この2枚組CDのDISC-1の1曲目に収録

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夜霧のハウスマヌカン [1986年1月~3月]

作詞:いとうせいこう、李秀元 作曲・編曲:柵部陽一 '86年1月22日(水)発売 歌:やや
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35941
今日は柳原可奈子の24歳の誕生日だが、彼女の持ちネタの一つに「ショップ店員」がある。彼女が生まれた頃は今や死語となった「ハウスマヌカン」という表現だった。ちょうど彼女が生まれた頃にリリースされた曲に「夜霧のハウスマヌカン」というのがあった。歌っていたのはモデル出身のやや(本名:小島八重子)で、当時26歳。北島音楽事務所に所属していた。「やや」を名乗る前の彼女は、覆面歌手「ヒマラヤ・ミキ」を名のり、平山みきの「真夏の出来事」(ヒット当時の表記は「平山三紀」)をカヴァーしており、アレンジはシンセやドラムマシンを駆使したテクノ歌謡。
「夜霧のハウスマヌカン」を作詞したのは、日本にヒップホップカルチャーを広く知らしめ、本格的にラップ・ミュージックで表現したアーティストの一人であるいとうせいこう。アフリカン・アメリカンのラップというスタイルを単に模倣したのではなく、日本語の表現方法の可能性を意識的に追求した点でその後の表現者たちに多大な影響を与えている。後に、MCUやKOHEI JAPAN、YOU THE ROCK、スチャダラパー、宇多丸らが影響された事実を語っている。
3/4小節のドラムに続き、哀愁を帯びたサックスが印象的なイントロ。歌われる内容はハウスマヌカンの哀しい実態と心情。1986(昭和61)年1月22日発売。ジャケットにはタイトルの上に「空前絶後プログレッシヴ演歌」と書かれている。
サビは♪よぎりのぉうぉうぉうぉうぉうぉうぉ(よぎりのー) ハウスマヌカーン(マヌカーン)~と歌われており、コーラスパートがある。♪夜霧の~のビブラートは初期の森進一っぽく歌うのもいいかも。
有線を中心にヒットし、ややは同年の第19回日本有線大賞新人賞を受賞したが、この後ヒット曲はなく、一発屋だった。'96(平成8)年には同じ事務所の山本譲二と「だから…そうね/漂流星」というデュエットソングをリリースしたが、その後は消息不明。
 「ハウスマヌカン」とは、自社製品を着用して販売する女性店員を指す和製外来語で、英語の「house」とフランス語の「mannequin」を組み合わせてできたもの。DC(デザイナーズキャラクター)ブランド大流行のバブル時代において、流行の最先端をいく人の代名詞であった。
しかし、後の「カリスマショップ店員」のごとく一世を風靡した「ハウスマヌカン」の権威は、数年後には人々の感覚に恥ずかしさをおぼえさせるまでに落ちることとなる。泉麻人の著作「街のオキテ」(新潮社刊)の中で、「ハウスマヌカン」は88年4月現在での「恥ずかしいフレーズ」の1位にランクインされる。ハウスマヌカンは、'80年代に彗星のごとく出現して当時のアイコンとなり、そして時代とともに忘れ去られていった。

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